現象学的なテレビのエポケー 改定
大脳生理学の発達と現象学の探求はなんだか将来収斂しそうな気がする。 もっとも僕は対して理解できないのだが。 現象学は、哲学ではない。 現象学を哲学と言う奴は、一回もフッサールの本を読んだことがない奴である。 もともとフッサールは意外なことに、記号論理学の哲学的基礎を心理主義的に検証しようとした人である。 全く同時期に、ヴィトゲンシュタインが、記号論理学を「論理哲学論考」でまったく記号的に基礎付けようとしたのと動機は似ている。 たとえばラッセルのパラドクスのような、解決不能な問題が発生し始めたからである。これは後に「不確定性理論」によって解決される(解決できないこと証明される)。 さて、フッサールは、例えば「数」のような外延を持たない理念的なものの実在性を意識の側から問い直そうとしたのである。 ざっと話は飛ぶ。 すなわち世界は、数と同じように実在性をエポケー(判断中止)できる者だと言う結論に達する。 これは心理学的にそうなのではなくて、心理はそもそも「心」の実在性を前提にしているため、この問題を扱えないのだが、「意味」によってそうなのである。 ここから、世界とは「意味あるもの」の安定した環境と呼べるのである。 そこで死とか、戦争とか、憎悪とかもろもろの事態は、実際には安定した「世界」を崩壊させる者であり、もしそれが実在性のあるものであれば、心理学的にカタストロフを呼ぶだろうということである。 しかしフッサールはなぜ世界が意味あるものでなければないかうまく説明できず、後のメルロ=ポンティの間主観性の概念によって、補強された。基本的に私にとってだけでなく、我々にとって意味あるものが「意味あるもの」なのである。これは発達心理学的にもそうである。これは日常的な閉鎖した状況で理想的な意味を持つのは明らかである。 非虐待児童が、恐ろしく歪んだ愛情を虐待する親に持つのも、閉鎖した日常性のなせる業である。 他方ヴィトゲンシュタインはがちがちの論理学にもかかわらず、ほぼその表現方法を全部捨てた。 彼は、「言語ゲーム」という概念を記号論理学に代えて取り入れた。これは秀逸である。 言語ゲーム論のほうが有名だが、私的言語の不可能性のテーマの方が、直裁である。結論は、どんな私的言語も、既にある言語の模倣でしかないというのがヴィトゲンシュタインの結論である。 これがどれくらい大規模な発見かというと「デカルトは何の言語で思考していたか」という言われれば当たり前の問題を提起し、デカルトを破棄するからである。これはデリダのフッサール批判と似ているがよほど簡単で強力である。 そこで言語ゲームである。言語ゲームの中でプレイをしていいない人間には、言語の意味はわからないということだが、これは拡張された現象学の間主観性の言語学的表現と等価である。 さて、普通の家族や知り合いや、マナーをわきまえて人々からならる日常世界、つまり直接対話が可能な世界をこれら大哲学者は想定している。 ラテン語の本の中で遊んでいた古典的哲学者よりはマシである。 ラテン語の規則の中で、既に何らかのフレームワークができていたのは明らかであるからである。 さて大脳生理学のこの20年くらいの発展は目覚しい。ものすごい局所論が成立することが明らかになっている。例えば「鼻細胞」とか「浜崎あゆみ細胞」というものが形成されて、認識を非常に単純にしていることがわかっている。 つまりこれらは認識ではない。細胞の形成である。その細胞は細胞の対象の何かの実在性とは関係ないのは明らかである。 一時行過ぎた記号論によって世界はすべて関係性であるといわれたが、そうではないことが大脳生理学で明らかになった 禿の小倉智明と言う細胞が100万か1000万か形成されているのだ。 これは何の関係性もない。関係性がないのは、そもそも既にある関係性の範囲で細胞が形成可能だらにすぎない。 くだらないことしゃべる|信ずるに足ることをしゃべる 男|女 ある人は「信ずるに足ることをしゃべる」範疇に分類しているかもしれないが、それがテレビの問題である。 ビートタケシが「信ずることをしゃべらない」と言うだけのキャラクターを何十年も続けていられるのも、テレビ全般の「信ずるに足ることをしゃべる」イデオロギーが厳然と存在するためである。 禿の小倉智明やみのもんたはその亜流である。 プロレス中継のテレビ朝日の馬鹿は、反対のデフォルメである。 ちょっと話が飛んだ。 日常生活には、基本的に生涯何も特別なことは起こらないのである。まあ人類の数千、数万年の歴史から言ってである。生殖出産と死だけは別だが。 それゆえテレビは全く不要である。 テレビがなかった場合の9.11同時多発テロを考えてみよ。 ボーイング2機が、ツインタワービルに衝突して、2棟のビルは崩壊し4000人の犠牲者が出ました。イスラム過激派のテロだと思われます。 と新聞で読むだけである。どんな抑揚もなく。 僕なら「あそう」である。 それをテレビは政治的に増幅して何事についても繰り返し繰り返しがなりたてるほかない。 それゆえ五月蝿いテレビのスイッチを切る。 つまりフッサールに習って、テレビの世界を「エポケー」するのである。 世界は基本的に静かであり、くだらない音楽や映画も必要はない。 さて、哲学的世界観におけるテレビは、日常的な生活世界の現象学的対象の実在性を、無際限に世界全体に拡張するものだということである。 もちろんその映像や解説に限定的な正しさがあったとしても、それは実在性は「ない」。 それは日常性を決定付けているフレームワークを共有していないからである。 テレビが提供できる例えば国内政治、国外の事件に関するフレームワークは、異様なほど狭苦しい。 日常生活の中で事実と共に提供できるフレームワークに関する情報は伝えきれないからである。 逆に国内政治の一部では、事実もないのにフレームワークだけ報じる例は多い。それは単にゴシップとして理解できる程度のそこの浅いものである。 さて、このフレームワークの狭さがビートタケシ的道化を可能にする「本音と建前」的逆転の構造であって、みのもんたも禿の小倉智明も単にその不徹底な例に過ぎない。 テレビ朝日の哲学者ぶったキャスターは、その狭いフレームワークを真理だと信じて、もったいぶった言い方をしているに過ぎない。 広範なフレームワークは、テレビは扱えないのである。たとえNHKが特番を組んででもである。 また単に日常生活の延長でしかない視聴者はそれを受容できないのである。 かくして、テレビは、日常生活が受容できる程度の世界の断片を世界全体であるかのように視聴者に信じさせることを毎日繰り返すだけである。 これはコマーシャルの点からも動機付けられる。 世界は変わらないが新製品は魅力的だというのが最良の状態である。 さて最悪なのは、どうやっても短期間に解決できない問題を1時間以下の枠で答えを出そうとするすべての教養、無教養番組である。 少なくとも、準資本主義体制で変革可能な限界と言うのは明確である。 構造改革のような政治的プロパガンダをそのままニュース番組があるいは評論家が使うのも頭が悪すぎる。 日本の封建的人間関係にはよい部分があり、経済学的個人主義モデルによってか遺体されればよいと言うような者ではない。 そのようなフレームワークがないと、少子化、雇用、教育、官僚制のような問題は、本質からかけ離れたところでしか議論はできないのは確実である。男女平等論者にはもうしわけないが、少なくとも日本社会では、それは害悪である。 さあ、それを朝の奥様方の番組で論じてみるがいい。 いかにアメリカかぶれぶったところで、お前らは百姓にしかすぎない、秋田の。
つまらないテレビを消す努力
テレビはひどくつまらなくくだらなく馬鹿げているため、若干の情勢をリアルタイムで知る以外まったく必要がない。 こんなものに免許を与えている総務省こそ解体すべきである。 まあそれは高望みなので、僕はテレビを見続ける症状がないので、見てないテレビをすぐ消すということで家族を精神て不健康から守っている。 それを続けてきたせいか、テレ番組がゲスだと、ゲスなものみてんなといやみを言うようにした。 そのような家族の若干の不和の危険を犯しても脱テレビ運動は功を奏し、最近は年取った母親はテレビをつけっぱなしに居眠りすることがなくなり、体を動かしているか、週刊ポストを読むかいずれかをするようになった。なぜポストなのかはわからないが、確かに6誌ほどある週刊誌で、一番平均的に面白いと思う。 ちなみに、僕は朝以外テレビを見ないのであって、その朝と言うのは5時から7時までの、早朝覚醒または中途覚醒の時間帯においてである。 朝食や夕食の時などやむを得ずテレビを非自主的に見ざるを得ないのだが、クソ・キャスターがぼけたことを抜かすと、家族の前でテレビを消す。一回はテレビを破壊したことがある。 というのも十数年一人暮らしをしていた時は、出勤の直前のNHKニュース以外見たことないし、病気がひどくなってからは、それすらみなくなったからである。 本当に疑問に思うがテレビでべらべらしゃべる連中は、本を読んでいるのだろうか。 麻生太郎を笑うのは簡単だが、禿の小倉智明と、ニュース解説とプロレス中継の区別が付かないテレビ朝日の馬鹿は、ごく普通の読書をしていないと思う。ごく普通の読書と言うのは、人がよいといったものを必ず読んでおく類の読書と、少なくともカラマーゾフの兄弟は全部読み通して、世の中には理解できないことがあるのだということを深く知っておくことである。 まるで世の中のことがすべてわかったような面ができるのは、錯覚である。これは大脳生理学的に言っても、現象学的に言っても錯覚である。 とりわけテレビというものが、そのようなすべてわかったような世界を全世界が共有しているような錯覚を作り出す権力の装置だと言うことである。 ここがテレビのキャスターやコメンテーターが馬鹿でしかありえない根本原因である。 だがテレビが、この世が不可解で理解しがたいことで満ちていて、なおかつそれをうまく伝えられないということを伝える努力をしたらどうなるのかわからない。まあスポンサーは付かないだろう。 それよりもテレビをこまめに消す運動の方が現実的で効果的である。禁煙より簡単である。
本当に禿のトクだねはみたくないのだが
単に目覚ましテレビの続きだから見ているだけである。 たびたび頭にくるので、チャンネルを変えると家族ともめるので、別の部屋に行ってしまう。 ぼくが別の部屋に行ってしまうと、全員別の部屋に行くため、誰もその番組を見ることはない。 そもそも小倉智明は禿であるのは有名である。 単に禿ならいいが、奴の話すことも全部禿であって、中身はない。 音楽のセンスはひどいの一言に尽きる。 いまどきストーンズとビートルズを対比する奴はいない。 鬘がずれているのだ。 だいたい焼肉ややっていて、その営業のことで頭が一杯なキャスターが冷静な論評をこんな次期にできるわけが無かろう。明日にも首をくくらなきゃいけないかもしれないのに。 30過ぎてできちゃった婚した佐々木アナウンサー降板と一緒に禿も降板して欲しい。 これが僕の当面の願いである。
スタジアム・ジャンパー
スタジャンは、非常に一般的なものかと思っていたら、あまり売っていないし、しばしば非常に高い。 そこで古着屋に行ったら、1500円でちょっとかっこいいスタジャン(腕のところが皮だ)があったので欲しいなと思ったが財布に300円くらいしかなかったので明日にしようと思って翌日言ったら売れてしまっていた。もうひとつもう少し高いのがあった。いまいちだったので買わなかったら、今日言ったら売れていた。 そういうわけで、なんとかお安くかっこいいスタジャンを買うというのが僕の現在の人生の目的である。
古舘一郎の無知、タイ野党を反政府勢力呼ばわり
昨日のニュース・ステーション、タイの空港を占拠しているグループを間抜けな古舘一郎は 反政府勢力 と呼んだ。 英語で反政府勢力に当たる語は"rebel"というジャストな単語が存在する。これは反乱軍(insurgent)と近似した言葉である。武力的に政府軍と対決するような勢力を言うのである。 タイは、そもそも王政で、軍が中立的で、暴力的なのは親政府勢力、あるいは政府支持勢力である。 そしてタイ与党に違憲判決が下った。 古舘一郎は、麻生太郎同様、日本語は話すな。 「反政府勢力」という単語は解体ができないなのである。 反政府勢力は、反政府団体とも反政府市民団体とも反政府派とも違うのである。 そして古舘は権力は民主主義の仮面をかぶってくると言うように、また無意味な一般論を言う。 当たり前である。民主主義は、権力の支配の一形態なのである。 そんなことは高校くらいで学ぶ。 しかし英語でそのグループを形容しているかと言うと ロサンジェルスタイムス、the opposition People's Alliance for Democracy, or PAD, テレグラフ the yellow-shirted anti-government protesters of the People’s Alliance for Democracy (PAD) ニューヨーク・タイムズ Antigovernment protests VOA Anti-government protesters BBC Protesters などである。 「反政府抗議者」が多数か? というわけでここでお勉強だが pro-government : ruling party anti-government : oppsittion party という図式はタイでは崩れていない。つまり民主主義内の対立である。非暴力の抗議行動を反政府勢力と呼ぶならガンジーは何なんだよ。無知のオンパレードだろう。それとも一党独裁でも支持しているのか古舘一郎。反対者はいないが、解説者が反対している振りをするような日本の現状を暗に肯定しているだけでしかない。 それが古舘の野郎は、政府への平和的抗議行動を反政府運動と呼びつける。 まあお前のようなポスト団塊の世代は、そのような抗議運動に政治的先入見を抱いているのは理解できる。 それ故ぐずぐずに腐っていく日本の権力に、何の行動もしない習慣を持ってしまって不平不満だけのアンケートをとるのが政治だと勘違いさせるテレビこそ、民主主義の仮面をかぶった権力である。
すまんな
俺は、運動もするし、帝国ホテルでビールものまんが、内因性の病気で、麻生!お前の保険金を使っている。 ただ言っておくがお前のようなバカにつける薬はないから安心しろ。お前に医療費は不要だ。その点を自慢するなら自慢しろ。
なんだかね
今日は隣で、なんの断りもなく、コンクリートを破壊して水道管をいじくる工事をはじめた。 午前中は我慢していたが、午後再び始まったので、そこは有名ホテルの宿舎なのだが、そのホテルに電話して、工事を中断させた。 クレーマート呼ばないでくれ。本当に薄い壁隔てて、ドリルでコンクリートを粉砕する音にはクレームをつけてかまわないだろう。しかし、工事している人には文句は言わず、ホテルに文句をつけて、社宅を管理する会社に指示するように言ってから、工事している人に連絡したから工事やめるよう求めて、管理会社からも、中止の連絡が入って、10分ほどの交渉で工事は中断された。まったく、理不尽な「市民」と言うクレーマーの苦情に馬事等であった公務員時代の対応の反省に立って、中村はクレームは得意である。 ところで、選挙と言うものが、単に政治的デバイスだと考えている者がいたらそれは、阿呆太郎並みである。選挙は実はお祭りである。なぜ政治がまつりごとと呼ばれるかと言ったら、政治と呼んで、金バラくこと自体はたいして意味がなく、権力を受容する人心を掌握することが、政治の本質だからである。 ミハエル・バフチンを参照のこと。 したがって、一切実務的に変化がなくても、一定期間に人心の権力の受容を正当化していくことは、政治の本質的機能である。 この点に関して正しいとか正しくないとか言っている奴は地獄に落ちる。 権力は、正統化された暴力であって、そうでなければ誰も税金など払わないのである。 これはマンガしか読まない総理大臣には理解不可能かもしれないが、マクス・ウェーバーの「職業としての政治」(非常に薄い本であり、ウェーバーの支配の社会学の短い要約でもある)を読んでいれば小学生でも理解できることである。 暴力を正統化することは、のほほんとした戦後日本人が考えるほど簡単なことではない。 それはダルフールを扱って改めて思った。
DVDプレーヤー購入
前に買ったDVDプレーヤーは当の昔に壊れており、PCでしかDVDは見れなかった。 しかしPCはダルフールの翻訳でほぼフル稼動しているので併用は困難であった。 ここのところ見ないテレビが激しくつまらない。 完全に制作費を抑えているためであろう。 また長らく小泉の太鼓もちばかり評論家使ってきたため、おそらく2〜3人しかこの世界恐慌前夜でまともに話ができる評論家がいない。 5年後小室哲哉が出所した頃、どんな音楽が流行っているのか凡人たる中村は全然わからないが、彼ならわかるのだろうか。ところで流行する音楽をつくる必要があるのだろうか。その点を小室には5年間考えていただきたいものだ。 というわけで、DVDを積極的に見ることで、制作費を削減したテレビ番組を家族と見る機会を圧倒的に削減する方針とした。とくに土日の夜は悲惨だ。 ところでDVDプレーヤーはたったの4000円である。DVDソフトと大差がない。 ところがレンタル屋でDVDを選ぶのが非常にめんどくさい。 今日は御伽噺のお姫様がニューヨークに現れるDisneyのコメディを借りてみた。毒にも薬にもならないみたいだからである。しかし制作費は確実にかかっているのは確かである。 ところで不動産業界とパチンコ業界が不況で撃沈しそうだという話である。 不動産屋に真人間はいないから、たまには淘汰されるべきである。 パチンコ屋のCMは、金貸しのCMとならんでテレビ局の大きな柱であった。 これをテレビ局が失い、さらに自動車業界が沈没すると、テレビ局は化粧品と健康食品、医薬品しかスポンサーがいなくなるであろう。あと薄毛業界もあるか。 したがって、さらにテレビ局は偏った番組しか作れなくなり、地デジの前に、業界再編が起こるのである。 しかし映画もくだらないな。 どうせ暇つぶしって感じ。どうせ暇つぶしなら自転車でもいいが、夜自転車は少し危険だし、これから寒いのでごめん被りたい。
俳句は飽きた
俳句は飽きたので自伝的小説を書くことにした。 僕の一番古い記憶は、ビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」のメロディーだった。 たぶん小学1年の頃だと思う。 なぜそうかというと、僕はズックをなくしていろいろなところを探し回って、大変悲しい気持ちになった思い出が、必ず「プリーズ・プリーズ・ミー」が流れると繰り返しよみがえったからだ。なんでそんな結びつきができたのかは後から考えるとさっぱりわからない。 ぼくは年の離れた末っ子なので、兄弟はそれを音楽として聞いていたのかもしれない。ぼくは、まだ「僕らはみんな生きている・・・」レベルの音楽性しかなかった。 僕はその後音楽を大きな趣味にすることになるのだけれど、次に古い記憶は、やはり小学1年か2年の頃ヤマハ・オルガン教室に通っていた時、どうしても楽譜が読めなくて、泣き出したため親に「そんなにいやなら辞めろ」と辞めさせられてしまったことだ。もし、そこで困難を克服することを覚えていたら、僕が抱えることになる困難は半分くらい減ったと信じている。 そういうわけで、中学生になって深夜放送を聴くようになるくらいませるまで、ぼくはなんでもなかった。何にもしていなかったわけではなく、少なくとも確か5年生の頃同学年で一番美人の女の子を付け回して、その子の親にどえらく怒られるという少しませた経験はした。 僕は学年で常に4番目に頭のいい子供で、なんかメダルを逃したオリピック選手の心境だった。 僕より頭のいい2人は、私立の有名中学に行き、もう一人はどこかに転校した。残念ながら我が家はかなり貧乏であったので、そういう選択肢は想定されていなかった。今から思えば、その頃父親は何度も失業していたはずだ。母親がすぐ仕事をやめてしまう父親の愚痴を僕によく言ったものだった。年の離れた兄弟は、新聞配達のアルバイトをしたり、家で母親と内職をしたり、生活と言うものに直面していた。僕は、単に役立たずのちびだった。家はしばしば険悪になった。僕は理由もなく全員に怒鳴られた。僕は、そのたび小家出を繰り返した。まあ10分くらいの公園までだけれど。 ある日、僕は「惑星を飲み込む」夢を見て、恐怖の中飛び起きた。兄がガムを噛んだまま寝た僕の口をあけて喉からガムを取り出したのだった。それは感謝する。けれど僕はこの極めて巨大なものを飲み込む夢の様々なバージョンをその後繰り返し見るようになった。 ぼくが気が狂ったのはおそらくそのときだと思う。ぼくは宇宙は僕の中に存在すると感覚的に信じている。すべのものを見下すのは、僕が飲み込んだものよりははるかに小さいからである。 (つづく)
夢
今日もたくさんの夢を見た。この3ヶ月見た夢の量は、3kgくらいにはなるだろう。 今日は死んだ父親が、隣の部屋で暖房なしに寝ているので、ストーブを付けに行かなくては、と思ったというのがある。まあそれだけなら夢なのだが、朝食の準備をしているとき、「あ、ひとり分たりない」と本当に言ってしまった。お化けが出たのである。 もうひとつの夢は、タバコを吸おうと思って火をつけたら、タバコに葉っぱが入っておらず、紙だけがぱああっと燃え尽きると言う夢だった。 話として面白いでしょ。 バカ太郎がマンガの読みすぎで漢字が読めないことが判明したのは愉快だな。 そりゃゆとり教育のバカなガキに人気があるわけだ。 確か冒頭の国会の演説でもへんな読みをしていて、そういう読みもあるのかとそのときは思ったのだが、あれは読みを間違えていたのである。その言葉は忘れたが、2度間違えたのは覚えているので、本当に勉強ができないのである。 マンガ禁止法を野党は提出してもらいたい。普通読めても書けないというのは許されるが、逆は相当のハジである。ブッシュの英語がひどいのは本になったくらいだから、今後バカ太郎の感じ読み間違い辞典というものが出る日が来るかもしれないが、そこまで持たないのが残念である。 ばかな人の言うことを頭からマル覚えすることしかできない空爆長は、まるで無作為に任命されたように見えるが、明らかに安倍が、ロボットとして任命したのであろう。つまり本当にクーデターの可能性は「あった」と考えるべきである。安倍が予想以上にへたれであったため、未遂に終わっただけかもしれない。あなおそろしや。 空爆長が間違っているのは、テストで隣の奴の間違った、あるいはへたな答案をカンニングして、答えが正しくないだけでなく、カンニングである両方がばれたという恥ずかしさを感じずに、野太い声で開き直るところである。しかもYAHOOでは正しい、という新しい基準まで抜かすとはあきれた抗弁である。 だったら、道徳教育も2chでは正しいという立派な教育が安倍愛国クーデター未遂政権では可能になろう。 安倍の再起は、決してさせない。
はいく
夜目覚め くしゃみがとまらず 妻起こす 今日もまた途中覚醒がひどかった。 妻はいないのだが、仮の話である。 今日も途中覚醒がひどく、1時からほぼ1時間毎起きていたが、途中で冷えてきてくしゃみをして鼻水だらだらになったのは、本当である。 5時過ぎると本当に冷えてきてストーブを入れた。 さて土曜は目覚ましテレビはないので5時からは週刊フジテレビ批評なる番組をやっている。 これはなかなか面白い。その後めざまし土曜なのだが、メインキャスターは、杉崎美香(漢字不明)である。以前ずっとめざニューをやっていた人なので知っている。めざニューでは川柳をやっていて「どうぞ」と右手のひらを上げて紹介する。まあ、この場合もどうでもいいところがフジテレビならである。 俳句はやっぱり難しいので川柳も可とすることにしよう。 大麻犯 早稲田慶応 ニュースネタ どこかのクソがきが通っている大学で大麻犯がつかまってもそんなものニュースではないのである。 バカ太郎 いいとこ取りで 他人(ひと)につけ 麻生太郎の本質を歌った川柳である。金融サミットでのインタビューでもアメリカとヨーロッパのいいところを結び付けなければいけないとバカ言っていた。これがどれくらい馬鹿な発言か気がつかないのがバカ太郎の耐えられない軽さである。全国一律支給の配付方法も、その思考様式のため発生したものである。これで二つ目なので、つぎまたこれをやったらバカ太郎降ろし始まるだろう。
落ちぶれてるときは、一人ぼっち
Nobody knows you(When your're down and out) レイラに入っている曲だ。アンプラグドでもやったかもしれない。 エタ・ジェイムスがオリジナルだと思われる。 オーティス・レディングもカバーしている。 クラプトン風にしないのが難しく、結局ギターはそうなった。 なんかカウボーイ・ジャンキーズみたいになってしもた。 歌詞はたぶん大恐慌の頃の話であると思われる。 なので世界同時金融不安を祝して掲載した。 昔俺は億万長者だったんだぜ 気にも留めず、金をばら撒いたもんだ いい友達をみんな引き連れて大いに楽しむんだ 密造酒にシャンペンにワイン その後、俺は落ちぶれた 友達を失い 行き場もない もう一度この手に1ドル紙幣を手にしたら 古ぼけたグリーンの鷲がにやけるまでしがみついてやる だって、誰も見向きもしないんだ 君が落ちぶれているときにはね 君のポケットに1ペニーもなかったら それは友達も同じこと、誰もいないのさ とうとうまた挽回したら みんな君の古きよき友達になりたがる 俺は容赦なく、疑いなく言うのさ 落ちぶれた奴に友達はいないってな
俳句を始めるつもり
今日はとある知人と話して、俳句を始めるつもりだと伝えた。 その最初の一句 黒タイツ、ニーハイソックス、ショーパンで である。 これは、今年の女子のボトムスの乱脈振りを歌った歌である。 シリーズで レンギンスは、ブーツを履いたら、黒タイツ ニーハイに ブーツを履くや 三色旗 色タイツ 似合わなくても 年問わず などいかがであろうか この場合、タイツとブーツが季語である。 このようなファッション用語は、目覚ましテレビの7時前の「いまどき」を見ていれば覚えられるのである。 今年はチェックとパープルが流行っているのだそうであるが、パープルを着ているのは女子アナだけで、町では見かけない。 チェックも流行っている様子はないが、タイツがチェック柄というのは見かける。 ショーパンをはけるのは一体いくつくらいまでなんだろうか。 昨年まで流行っていたチュニック=レギンスは、おばさんの服に変わってしもた。 楽だから チュニックレギンス 着てるのよ ああ、季語がない。
倒れる東京タワー
中村は写真が極端に下手である。 今日は、にもかかわらず、知り合いの写真家の講演を聞きに行ったのである。 しかし、僕にとっては本当は東京タワーはこのように傾いているのかもしれない。