消してしまった父の記憶
昨日最後の投稿にするつもりで、そのように理想的に結んだのだが、たしか親父が死んだ後にこのブログは書き始めたんだよなと思って昨年12月の書き込みを読み直したら、全くそれに該当する書き込みがない。これは明らかに記事を整理する際誤って全部削除してしまったと見ていい。あらららら。その当時の心境をかなり克明に書いたはずだったのだが、消えた・・・・・ 父親の葬儀の日は12月26日詰まり昨日の1年前でものすごい土砂降りだった。 父親の出身はほとんど不明である。渋谷生まれで新宿で育った。まだ新宿駅前が単なる商店街だった頃そこらの商店のガキどもと遊んでいたらしい。アルタのとなり?の時計屋はその頃の友達だったらしい。父親の父親は父親が子供の頃他界している。しかしいくつかの状況証拠によると、父親は里子に出された可能性が高い。そして彼は文学青年で萩原朔太郎が好きで当時の日大工学部に行ったが20歳で戦争に行った。戦争に行く前憲兵に2度捕まり危険思想の持ち主として終始監視されていたらしい。2.26事件を日比谷の図書館に本を返しに行く時遭遇したそうだ。 戦争では満州に行き、2等兵でひどい目にあったが工学部に行っていたおかげで通信班に配属され比較的楽に過ごせたらしい。それでも何もない満州の平原の塹壕の中で中国軍と対峙していた時期があったらしい。双方とも首を出すと銃弾が飛んでくると思っているため何も起こらなかったそうだ。具体的戦闘についてきいた話はこれだけだ。その後千島に飛ばされ(南じゃなくて良かったな)、補給路が尽きて昆布ばかり食っていたら栄養失調に成り、長野の病院に送り返されその病院で玉音放送を聞いたそうだ(北に残ってなくてよかったね)。父親は母親を尋ねて実家のある福井県武生市にいったら、その母親が財産すっかり使い果たしていて(帰ってこないと思ったらしい)、自分が無一文であることを知る(仮にも戦前に大学に入学しているからには財産はあったらしい)。その町に僕の母親がおリ、見合いもそこそこに結婚し近くのお寺に仮住まいしていたら福井地震にあった。父親は竹やぶにすぐに逃げ込んで、母親に逃げるように言ったそうだが、母親はちゃんと火を消してから逃げたそうだ。父親は親戚から毛嫌いされていたらしい。その為少なくとも僕にとっておじさんが二人はいるはずなのだが一度もあったことはない。年の離れている兄は会っている。父親の母親がいつ死んだのかは不明である。戦後のどさくさの頃であると思われている。父親は母親とおそらく最初は川崎に、その後文京区あたりに転居したらしい。僕の上の兄は現在17号線の小石川高校のある交差点あたりで生まれたらしい。母親とその頃の場所を探しにいったことがあるがまるでわからなかった。父親は計理士だったがすぐ会社を辞めるため、我が家は貧困であった。家はしょっちゅう内職をしていた。貧困な癖して、父親がなまじ戦前ハイカラなインテリだったため、その一般的な昭和の貧乏とは違った。貧乏なインテリといえば、まさに俺と同じだ。 父親のことが好きだったわけではないが父親は他の家族にあまり好かれてなかったため僕をかなりかわいがって僕をスポイルした。僕は末っ子である。僕の遊びに付き合うこともよくあったが、父親の外出の理由やお供に使われることの方が多かった。十条仲通り商店街の仔馬というコーヒー屋には毎週連れて行かれた。まだカウンターに頭の出ない頃から(ソーダ水を飲んでいた)、ちゃんとひじがつけるようになるまで(コーヒーを飲んでよくなった)。またかなりしょっちゅう王子の飛鳥山へ連れて行かれた。そして父親は花の植木をかって帰り家の小さな庭に植えなおした。ある日父親と秩父の小さな山を登りに行ったら、父親は息を切らして大変つらそうにして途中で帰った。1〜2年後父親は十二指腸潰瘍で倒れた。僕が高校三年の時で、僕は自分は自分でヘビーな気分でいたのに、家はさらに貧乏になってしまった。つまり進学の望みは絶たれたのだったが、国立なら余地があると気を取り直しほとんど勉強していなかったのにちょっと勉強して千葉大の新設の昼夜開講の新設の学部に僕はもぐりこんだ。そのため千葉大が西千葉にあることはよく知っている。父親の病気はそれ以降なかなかよくならならず、そのうち心臓を悪くした。僕がそこそこ世慣れてきて、父親がかんしゃく持ちのわりに神経質で根性のない人間だったし、自分がひどい貧乏をしてきたことを知ることになった。しかし年の離れた兄がある程度面倒を見てくれたので、自暴自棄にはならずに済んだというだけである。父親は病気がちながら長生きした。84歳まで生きた。最後の2年は死の恐怖と戦うかわいそうな状態だった。僕は、僕のひどい人生を躁鬱病のため送ったが、僕の躁鬱病の人生と父親の人生とは、関係がありそうでなかったことは確実である。僕は病魔から脱出できたので、できなかった父親より幸せで、彼を不幸に思う。彼は僕に言ったものだが、戦争から帰ってからは死んだも同然で、子供ながらもそれは気が付いていた。魂の重大な部分に穴が開いてしまってひゅーひゅー音がしていた。父親が死んだ日、昨年の12月24日11時過ぎ心臓マッサージをしたら、もう止まってしまった肺からヒューヒューがした。瞳孔が開いているのを確認して手を止めると、彼からはもうヒューヒューと言う音はしなくなった。
I shall be released
今年はとにかく健康になってよかった。 99%問題ない。1昨日薬をもらい忘れて、安定剤ちょっと飲んでんたら時間はかかったが眠れた。睡眠の改善も進んでいるようだ。 今年読んだ読んで一番よかったのはボブ・ディラン自伝だろうな。 たいていの本には驚かないが、自伝と言いつつ、肝心なことはほとんどひとつも書かないで、ものすごくプライベートなこまごました話を克明につづると言う態度が良かった。 この件で先日友達と話したが、ジョン・レノンの歌詞は、お札に書いて読んでも代わり映えのない代物だが、ディランの歌詞は言葉が真実を語ると言うわけがないだろこのやろうという前提があるため交流のあった二人だが、まったく質のレベルが違うと言うことであった。 I shall be releasedの歌詞の話も及んだ。これは、たとえば We shall ovecome とか I shall return とか 話者があることをする強い意志を表明する文章からの借用であるが、そのあることが be released という受動形なのはいかなることか。 これは文法上のアイロニーである。 あることを受動系で意思するというのは困難である。いったい話者が誰に意思するのか全く曖昧なままだからである。 かくして、I shall be released というフレーズは、まるで I wish I should be released のように聞こえるのである。 強い意志の存在なんか聞こえない曲調からしてそうである。 ディランと言う人はこれくらい手が込んでいて30年たってようやく分析できた。 そういうわけで来年は I shall be released である。
父親の一周忌だった
さすがにすっかり父親のことは忘れた。忘れたことを確認しにお寺に行ったが、世間はクリスマスイブであった。 ぼくはまだ風邪を引き続けて、お仕事もはかどらない。 新しいサイトは大成功である。アクセス数で大成功というのではなく、その新しいサイトが国際的なサイトとして国連安保理への声明への連名団体として認められたということで大成功であるのである。成功は約束されていてその通りにやったといってもいいが、まあ内実は今後努力する。 そいういうわけでオヤジが死んでから、この一年で大変多くのことをした。 金にならないのが問題だが、世界をわずかながら変えたことは確実である。
風邪がひどい
お仕事たまっているのに、風邪がひどい。 右から左の仕事ならまあ我慢すればいいのだが、全く新規のお仕事がどっときて焦りまくりである。しかも他言無用と来ているから愚痴もいえない。 まあ1件は中途半端だが見通しが付きそうだ。 もう一見はサイトの大改造なので数日かかる見通しだ。 まだその大改造の設計図ができていないので困る。 食欲がない。腹が下る。夜眠れないため昼眠い。 という一日だった。 ああ夜友達と会う。近所だからいいけど。吐きそう。
半年延長
社会復帰へのモラトリアムを半年延長する。 ただ体調がよくなっただけでは、社会復帰は無理である。 ハートの問題である。病んでいた時にはハートの問題は存在せず、脳の代謝物質の異常だけが存在していたのである。まあその代謝異常がハートに大きく反映はしていたが、それは幻覚である。 この幻覚の中に長くいたことを克服することが非常に難しい。 まあ生活を徐々に変えないといけない。どうしたらいいのかはよくわからない。まあデモそれほど馬鹿ではないから何とかする。ただし一切急がない。
へとへとである
土日12:00〜16:00代々木公園でアムネスティのビラ配りまくった。 おかげで昨日もくたくただったが今日はさらにくたくただ。熱出そう。 いかに労働できない体力かを思い知った。しかし2日間まるでトラブらず、全く見ず知らずの人たちと全く見ず知らずの人に勧誘をするというぼくとしてはかなりレベルの高い仕事をこなした意義は大きい。帰り道かなり自己嫌悪にさいなまれたが、まあ飯を食ったら忘れた。 なんといってもとにかく他人とほとんど口を利いていないのだから、本当にしゃべれるのか相当に懐疑的であった。しかし仕事で不特定多数の人と話すのは完全に慣れており、また失われていなかったため、そこそこ優秀な勧誘員であった。 しかし疲れた。 ちなみに僕が何かして世界がどうなるとは思っていないので、結果に関してはくよくよしてはいない。しかしおそらくネット上では一番熱心な人間の一人にはカウントされているだろうからその責任は果たしたかったというだけだ。 それ以上の責任は負いたくない。 読みきれないほどの情報がたくさんある。僕は図書館員だったからそういう状態が根本的にすきなのである。僕のブログの情報は図書館には一切ない。これは復讐である。ざまを見ろ。
精神障害者就労に助成
精神障害者の就労を支援、企業に助成金支払いへ…政府方針http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071206-00000106-yom-pol 12月6日14時44分配信 読売新聞 政府は6日、精神障害者の就労を支援するため、企業が将来の正規雇用を目指して精神障害者を試用する場合、企業に助成金を支払う制度を新設する方針を固めた。 2008年度にも導入する。精神障害者の雇用は増加傾向にあるが、健常者に比べて仕事に慣れるのに時間がかかることもあって、途中退職する事例が多い。新制度では試用期間に時間をかけて仕事を習得しやすくすることで、雇用拡大と、定着率上昇を図る。 新制度の名称は「精神障害者ステップアップ雇用奨励金(仮称)」。就労支援策としては、フリーターを対象に、週20時間以上3か月間、試行的に就業させる企業に、月4万円の助成金を出す「トライアル雇用」制度がある。政府は、この制度を利用したフリーターの8割が正規雇用につながっている実績を踏まえ、これを参考にした新制度を創設することにした。 ---------------------------------- と昨日インセンティブの問題を書いたら政府は親切にインセンティブに関する政策を打ち出してくれた。これはものすごく画期的である。精神障害者手帳を持っていても障害者の仲には実質は入らなかった。 なぜなら多くの企業はたくさんの鬱患者を抱えているからである。たとえば企業の何パーセントは精神障害者を就労させていなくは成らないとか言うと、それはおそらく10%以上になってしまうだろう。 さてドロップアウトせざるを得ないほどの精神障害者は当たり前だが「変化」に弱い。したがって、自立すること事態がリスクである。普通の場合精神障害者であることは100%隠して就職を試みるのであるが、上の記事どおりこれが長続きするわけがないし、こっちが長続きしても会社が長続きしないと言うのも多かった。 まあハローワークなんてあの精神障害者なんですがというと、うちに頼ってもしょうがないと言う露骨な態度をする。まあ区役所の保健所の窓口の人間同様犬畜生みたいなやつらである。 まあ最近は精神障害者より、ワンコの方が上等なもの食っているだろうな。 しかしぼくが気が狂っている上に中高年である。多重差別である。まああんまり期待できない。まず派遣とかの非正規雇用問題が同時に解決されないと逆差別になるだろう?
小泉最悪改革の終焉
<障害者自立支援法>年金引き上げなど盛った見直し案合意 12月5日18時23分配信 毎日新聞http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071205-00000078-mai-pol 与党の障害者自立支援に関するプロジェクトチーム(木村義雄座長)は5日、障害基礎年金の引き上げなどを盛り込んだ障害者自立支援法の抜本的見直し案で合意した。近く政府に提出する。 見直し案は、障害者支援策について、介護保険への統合を前提としないことを明記。障害基礎年金は2級の給付額(月6万6000円)を1級(月8万2000円)並みに引き上げ、1級をさらに引き上げる。06年末から08年度まで計1200億円を投入した「特別対策」は09年度以降も継続。障害児のいる世帯のサービス費や医療費の自己負担合計額に上限を設け、サービス費の減免措置が適用される年収基準を現行の600万円未満から890万円未満に緩和する。【大場伸也】 僕がどの程度影響を受けるかわからないが、とにかく元気な馬鹿に人気者の小泉悪法が改正されることになった。僕に限って言えば、小泉悪法は完全に自立へのインセンティブを剥奪した上で恩恵を減らしただけである。これはぼくが完全に社会的に透明になる覚悟すら植えつけたのである。 まあこの秋からほぼ安定しているので自立したいとは思うが、クソ格差社会で簡単に自立できるわけがないだろう。 まったく悪矛盾で頭がくらくらする。また結果を待って冷静に判断する。それまですべてお預けだ。
一歩前進だああ
Japanese for Darfur http://japanesefordarfur.org 開設です。コンテンツはほとんどないけれど、アムネスティ・インターナショナル日本のダルフール・イベント掲載をもって正式開設としました。 そのイベントは、12月8・9日代々木公園でベッド・インするというものです。時間があれば来てよね。詳しくはJapanese for Darfirサイトをご覧ください。僕は二日とも行きます。寒いと思うんだけどな。何しろ実在の人物であることをできるだけ訴えたい。 これから名刺サイズのJapanese for Darfurのフライヤーと問う実用のポスターを制作する。さっき画材屋さんに行って、100cmのケント紙とアクリル絵具を買ってきた。アクリル絵具は小さなセットを買ってきただけだ。現物は色が決まってからまた買いに行く。大きな絵具は1色¥500するのである。 昨日のニュースはチャド問題を無視してクリアした。 まあいずれにせよ、とにかくアムネスティのおかげで道は開けた。猛烈な閉塞感から多少解放された。 さあ次行こう。
220以上のXOOPSテーマを試した
XOOPSは全部フリーでデザインもthemesの名称で配布されておりアメリカの配布サイトから一生懸命ダウンロードしたら220を超えた。 結構凝ったものが多いのだが、凝ったものは手を入れるのが難しい。なるべくファイルが少ないものでないとアレンジするだけでものすごい作業量になる。 ちなみにアメリカの本家サイトは閉鎖中でhttp://sourceforge.net/project/showfiles.php?group_id=41586 で配布されている。そのファイルがどんなものかはそこではわからないので、昨日その220あまりのテーマをXOOPSのthemesディレクトリーに放り込んで、テーマ変更のメニューを表示するようにして、全部表示させてみた。ジャストなものはなかった。求めているのは単純でヘッダーが大きめの画像で、本体が白と言うだけのものである。まあそういうシンプルなものは受けないのかもしれない。昨日はそれに最も近いものの画像をと背景の色を変更しただけである。翻訳と英文の気候もあったため、2日間修行みたいなことをやっていた。 まあ今や無料のXOOPSレンタルサイトもあるくらいなので暇ならそれで試していただきたい。 中にはテンプレートと言う別のファイルの変更を要求するテーマもあるがそれは作業量が増えるのでまったく扱わなかった。 今日はコンテンツにあたるモジュールも探してみた。これは日本のXOOPSサイトにある。基本セットには入っていないブログとか、RSS出力とか、イベントとか重要なものがある。その他基本セットでは不足している機能を補完するものもある。XOOPSは単純なテキストをうまく表示するのが苦手である。その為テキスト関係のモジュールも多い。なんとXOOPS用のWikiモジュールも複数ある。こうなるといったい何もののサイトかよくわからなくなるが、とにかくテキスト系は選択肢がひろいということだ。勉強になった。 なんだったらビデオや音楽のストリーミング・モジュールもある。 そういうわけで一番大変なのはデザインである。あとは既にほとんどなんでもそろっている。 XOOPSデザインは 1.themes.html これはタグで構造を決定するもので、smartyという固定URLに依存しないファイルを指定する構文を含む。 2.theme.css これは色と大きさを決める。 ただし1と2のいずれで位置を決めるかは決定的ではない。 画像などは本来2で決定すべきであるのだが、しばしば1で記述されることがある。上部のタブなどはsmartyでフォローされていないので単に1に書き込んでしまうこともある。 テーマのアレンジはこの二つのファイルの関係を分析して、決定的な部分を変更するのである。このデザインだけでも相当な技だよな。フラッシュの方がはるかに簡単である。 WikiとXOOPS系が何が違うと言えば、XOOPS系は登録会員制だということだ。非会員、会員、管理者でアクセスできる権限を変更することができる。 XOOPSはそのまんまだとIT系のユーザー会向けのサイトみたいになる。そうしないのが一苦労である。しかしまあとにかく安定していてユーザーが多いのは実に心強い。 現在のJFDは、まったく一夜漬けである。そのうちもっと説得力のあるデザインに変えたいものだ。 今日は土日の過密な労働のためやる気がない。しかし少なくとも4本紹介しなくてはいけないニュースがあり、まだ2つしか訳していない。 何度も書いているがこのようなことはインターネットが空っぽの巣ではないことを証明することが根本的な動機である。まだGFDは匿名的である。当たり前だ2日で作ったのだからな。頭に来るが、これ以上無理はできないので、気を抜く。 テイク・イット・イージー
クソ忙しい
今日はニュースが多く少なくとも二件残したまま、Globe for Darfurへの英文のブログへの投稿が昨日から遅れておりさっき書きあがったばかりで自己嫌悪に陥っている上、なんとか今日中にダルフール・サイトの構築の次の段階に入らなければいけないのである。 英文を書いてみたがものすごく短い文しか書けないので情けない。しかしこれは日本語でなるべく短い文を書くようにトレーニングしてきた結果だからしょうがない。最初の文は英文でありがちな継ぎ目のない文ぽい長さに相当する。 なるべく接続詞一個以上と関係詞二つくらい使わないと英文ぽ英文にはならない。なぜならば、結論が先に来て述語が来て述語にかこつけてさらに詳しい説明を施すと言うのが英文ぽい書き方だからである。 しかし英文は直接英文を書くのだが、頭に浮かぶのは英語だけれど、考え方は日本語なのでやはり日本語っぽい英語になってしまうのは避けがたいのである。また、日本語はです、ますで終わるため前もって何を修飾すべきか考えないと長い文章は書きにくいが、英語は、名詞で終わるため、それに関係詞をつければ、やる気がなくても長く書けるのである。 ノーベル文学賞大江健三郎の文章はまるで英文で考えた日本語のようで、おそらくひどい悪文なのだ。大江の中後期の作品をわかったようなフリをしている奴がいたら、ものすごい英文がかけないといけない。仏文でもよろしい。日本語ではない。 と忙しいのにくだらないことを書いた。