Someday never comes
別に
01 | 2007/02 | 03
S M T W T F S
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 - - -

The Times They Are A' Changin - Bob Dylan 1964


ボブ・ディランの「自伝」読みました。
なんというか、誰でも知っていることは何も書いてなくて、その誰でも知っていることも、彼自身からは妙によそよそしく感じられるかのように書かれていた。彼は自分がフォークソングのアーチストとして確信を持っておりそれがいかなるものかは書いているが、デビュー後の大混乱については、完全に否定的なのだ。少なくとも中年になって引退を考えたことも書いているし、現在どのようにレコーディングしているかも書いている。彼は政治的なコミットメントがないことをはっきり書いていて、彼がそのシンボルである60年代の大騒動にはまったく触れていない。
この自伝は英語タイトルは「クロニクル1」なのであって、また書かれるのかもしれない。偉大な作家のように1だけ書いて、やめてしまうとなおさら偉大である。
締め切りに終われる小説家ではないのだ。
「ライク・ア・ローリング・ストーン」は自伝ではなくてグリール・マーカス(ロック史の名著「ミステリー・トレイン」の著者)による、その曲についてだけの恐るべき本だった。これから読む。

YouTubeの曲はデビュー直後のもので、「自伝」はその手前で終わっている。彼が「風に吹かれて」「激しい雨」「戦争の親玉」「時代は変わる」などのどう考えても政治的にコミットしたオリジナルを書くように考えが変わったのかは、「自伝」にはまったくかかれていない。

彼は、プロテストソングを書いたのではないというだろう。フォークソングの要素の中に時事ネタを扱い、民衆に訴える伝統があったのだと。彼はオリジナルを書いたというより、そういう伝統に自分と自分の時代の言葉を与えたのだと主張するだろう。

彼は、反体制にも、サブカルチャーにも、怒れる若者にも所属していないと考えたのは「自伝」を読む限り明らかだ。

そして1960年代のフォークソングというサークルが、お高くとまった、保守的な、しかし民衆を代弁するかのような矛盾したものだと気づく。そして民衆の音楽家がいつのまにか反体制のシンボルというものに祭り上げられたとき、ぶちぎれたのは明らかだ。

そして「ライク・ア・ローリング・ストーン」がリリースされることになるのである。

この曲が、民衆の歌であることは明らかで、お高くとまった連中が一文無しになってざまを見ろといっているのはまた明らかなのである。それが「ローリング・ストーン」の本来の意味である。だがしかし、明らかに一文無しになって民衆の中に入って「どんな気分だい」という暖かな響きもあるのである。

こうして、時代は変わるのである。
Rocky Mountain Way - Joe Walsh & Friends


とかいってボブ・ディランには悪いが、フォークソングは嫌いだぜ。ロックになったから海を越えることができたってわけだ。イーグルスに参加しているジョー・ウォルシュの代表曲のひとつ「ロッキー・マウンテン・ウェイ」。
時期がわからない。旧イーグルスの参加直前のようだ。80年代のファッションじゃないよな。サイドギターはたぶんドン・フェルダーだろう。
イーグルスのフォーク時代を終わらせたやつだ。ははは。
もちろんジェイムズ・ギャングのメンバーだった。最近ジェイムズ・ギャングも再結成して活動しているらしい。

ぼくは誤ってジョー・ウォルシュのベスト盤という物を買った。CD2枚組みだとおもったが、この人は野蛮なロッカーぶっているがかなりのインテリで、ベスト盤に全曲に共通するものはほとんどないのだ。

くだらないことが好きでも有名な人で、若いときからアメリカ大統領になるといってはばからなかった。ウォルシュの曲に「ショー・ミー・ヨー・ティッツ」(Show Me Your Tits)という曲がある。このフレーズはニュー・オリンズのマルディグラ(Mardi Gras)でビーズをばら撒く山車に乗った男たちが、女の子にかける決まり文句だ。その曲を録音したときレコード会社の重役から「情けない曲書くなよ」と声をかけられたそうだ。意味は自分で調べてくれ。
The Wild Mountain Thyme - Luke Kelly & Dave Philips


ケルト(アイリッシュ)およびスコットランド民謡の「ザ・ワイルド・マウンテン・タイム」。シンガーについてはよくわからないけれど、アイリッシュ・ミュージックはかつてそして今でも無伴奏のチャントで歌われてうけつがれ、伴奏はその後付けられたものなので、この無伴奏のバージョン(しかも動画じゃない)をあえて選んだ。伴奏のハーモニーは歌から作られるので演奏者によりかなり違う。

この曲は、最初にイーグルスのグレン・フライのソロ・ライブで知り、そこのMCでグレンがこの曲はバーズではじめて聞いたということでバーズ(2ndアルバム)のを聞いた。僕が異常に好きで日本でまったく評価されないフーターズのライブでも歌われているのを知った。

別にアイリッシュ・ミュージックに詳しくないけれど、大飢饉で大量にアメリカに移民したアイルランド系のアメリカ人が、アメリカのポピュラー音楽の誕生にものすごく大きな役割を果たしていることはわかっているので、アメリカというとカントリーだブルースだという前にこういう音楽があったはずだという理由で、アメリカのルーツミュージックにアイリッシュないしはスコティッシュ音楽も入れろと僕は思うのだ。

まあ、古い録音は、クラシックの食いっぱぐれみたいなテノールが歌っていたりして、死にそうである。この録音は古いらしいが、生き生きしている。
現代アイリッシュ・ミュージックの人もみんな歌っているので気に入ったらYouTubeで探して欲しい。
Waltzing Matilda − Tom Wait

灰汁が強くて聞けない人もいるかもしれないトム・ウェイツによる「ワルツィング・マチルダ」の改作曲「トム・トラウバーツ・ブルース」(Tom Traubert's Blues)。1976年と30年前の曲だが知らなかった。存在を知ったのは3年前くらいのことである。たぶん、どっかの店で聞いていたく感銘を受けた。トム・ウェイツだということとワルツィング・マチルダかもしれないということだけわかったのでネットで調べて、曲名がわかったのだった。
トム・ウェイツはピアノ弾き語りで、どすの聞いた声でなんかさびしく悲しい街角のことを歌っているように聞こえる。この曲をロッド・スチュワートが、アンプラグドでカバーしている。そっちは、アコースティックな透明感のある演奏で、原曲はオーストラリア民謡だが、まるでスコットランド民謡みたいにうたっているので、一般的な人にはそっちがお勧めだ。
原曲の「ワルツィング・マチルダ」は、流れ者が羊を盗んで地回りから逃げ池に飛び込み幽霊になって出るというものすごく殺伐とした歌詞で、ママさんコーラスが楽しげに歌っているのは何かの冗談としか思えないのである。
トム・ウェイツはその殺伐感を原曲から拝借してきたんだと思う。

出だしの歌詞はこんな感じ

傷つき疲れ果てた俺、月の仕業じゃあるまい
それが今日まで手に入れたすべて
明日を見ろよ、ヘイ、フランク、貸してくれ
何ドルかでいいからさ
マチルダとワルツしに、マチルダとワルツしに
俺と一緒にマチルダとワルツしに行かないか
(ワルツする=仕事探しに放浪する)

ワルツィング・マチルダの英語歌詞は次のサイトを参照してください。
http://www.worldfolksong.com/anthem/lyrics/pat/waltzing.htm
貧困の分類学
たまにはまじめに書く。

「格差社会」という表現がまやかしであることは誰にでもわかる。「貧乏」が正しいという論調もあるが、揚げ足取りはやめよう。現象としての生活水準の低さを世界的に見るならば「貧困」がただしい。

「貧困」が現代的形態をとったのは、アメリカの自由至上主義に基づく世界経済の再編が始まったときだった。

そこで発見されたのは「絶対的貧困」の世界的存在である。
世界中の大都市周辺にスラムが発達し、どんな生活保障もない、極貧の、乳児死亡率の高い人口があまりに多く存在することだった。
これは、ほぼ商品作物への農業の集中による農村部の崩壊によるところが大きいと見られている。

二つ目の貧困が発見された。それは割りと最近のことである。
中国とインドという巨大な人口を有する国家で、農村部と都市部での巨大な経済的格差である。これが「絶対的貧困」と違うのは、農村部がまだコミュニティとして崩壊してはいないという一点にかかっている。「絶対的貧困」の場合には、都市部の発展による経済的格差ではない。中国・インドの場合には、まだ「国富」の考え方が通用する範囲である。

三つ目の貧困は、人種間の貧困である。
これはアメリカとフランスではっきり認められる。どちらかというと「絶対的貧困」に近い性格を持つ。差別があるというわけではないかもしれないが、もともとの貧困層が、スラム化したという特徴を持つ。めちゃくちゃな経済的格差が生じるのはこのタイプの国の貧困においてである。

四つ目が、世界的でないかもしれないが、日本のポストバブルの貧困である。
これは
1.日本が沈没している
2.日本が自由市場経済の生き残りのため大衆を切り捨てている
3.ポストバブル期自由化の経済・労働政策が失敗だった
4.集団主義的だった日本資本主義が労働市場の再編が困難である
5.単に一時的である
などなど
思うに身近だから騒ぐが、日本の貧困はたいしたことはないだろう。割と古典的な資本主義の階級格差程度であろう。むしろ日本の現在の貧困が1〜3の極端な形態の貧困の過渡期であるかもしれないということについて、明確な展望がもたれていないことが問題である。現象として格差があるのないのは問題ではない。貧困が、その国の経済に必要な条件になるかどうかが問題なのである。
大衆の熱狂の最中小泉政権は明らかにそう考えていたと思う。
しかしそれは現実主義でもニヒリズムでもなく、ただの無責任だったといえる。なぜなら自分の改革の結果責任を取ることを明確に拒否したのだから。
そして曖昧な議論だけが残った。
現実主義的には、アメリカやフランスの方向に向かっている考えるのが正気というものだ。
ストリートチルドレンを小汚いゴミと思い、道端の死体に気にも留めなくなるようになるにはまだ日本に時間はあると思う。いやないのかもしれない。神のみぞしるである。
ボブ・ディラン自伝、ライク・ア・ローリング・ストーンを買う
僕はボブ・ディランが好きだが、ファンというわけではない。尊敬はしているが、懐疑的でもある。それは、村上春樹にも言えることなので、おそらくそのほか好きなミュージシャンや小説家についても同じようにいえるのだろう。

昨日「ボブ・ディラン自伝」を買った。DVD「ノー・ディレクション・ホーム」を買おうかな?と思ったらそのコーナーに並んで売っていたのだった。知らなかった。2005年出版。これは僕が貧困の哲学のさなかにいたころだったから、何か買いたいものがあるところには絶対に行かないことにしていたころだ。

「ボブ・ディラン自伝」
これは、掛け値なしに面白い。文章やアイディアが卓越していて、訳者のご苦労もあるけれど、上等な小説と肩を並べる出来具合である。相当長い情景描写ですら、ああ、英米文学の伝統そのものじゃないかと思わせるくらいである。
しかも素材は「ボブ・ディラン」という有名で型破りなミュージシャンで、少しでも彼のことを知っていれば、いくつかの伝説の瞬間が訪れる予兆におののいてしまうのである。僕らが知っている、あるいは知りもしない、知ろうにも知ることのできない固有名詞の山の中から。
彼は1965年でフォークソングに別れを告げるが、それは部分的にはなぞのままである。そういう類の伝説である。
しかし、とにかく文章が面白いのである。面白い文章を読みたい人は必ず読むべきである。

「フォークソングとは、完璧に把握するのがむずかしいものだ。フォークソングは人生の真実を歌うが、その人生自体にかなり嘘が含まれる。しかも私たち自身がそれを望んでいる。そうでなかったら快適に生きられない。ひとつのフォークソングは千以上の顔を持ち、それを歌いたいなら、そのすべての顔を知らなくてはならない。フォークソングの意味は変わるものであり、同じ曲が別の瞬間にはちがうものになる。歌う人と、聞く人によってフォークソングは変容する」

これがボブ・ディラン自身のことばである。彼が曖昧なアジテーターでなく(つまりジョン・レノン)、明晰な詩人であったことがはっきりする。

ここでボブ・ディランがフォークソングと読んでいるのは非常に幅広いもので、クラシック、ジャズ、ポップス以外のアメリカの民間伝承曲で、古いブルースからカントリーまで広がるものであったらしい。要するに音源がないのでよくわからない。しかしそのヒーローがウッディ・ガスリーであったことがわかっているわけである。

ちなみにデビュー前のボブ・ディランの音楽シーンは、ロックンロールが消え去り、エルビスがアイドルになり、ビートルズは出てこないという妙な時代だったらしい。その当時のEP盤のヒット曲への嫌悪をディランは隠していない。もっと若いディランは、明らかにバンドをやっていた。しかしバンドを作るたびに乗っ取られるので一人で歌うスタイルを作ったと語っている。本当かどうかわからないが、最低限ロイ・オービソンに夢中だったことは確かで、根っからのフォークシンガーではないことは明らか。ずっと野心家で、単身ニューヨークに乗り込んできて、伝統的なフォークソングでは、もう自分の可能性がないことを知り、創作に向かうのである。どれくらいボブ・ディランが本を読んだかも書いてある。

バルザックは愉快だぜ

とボブ・ディランは語りき。バルザックのように愉快なのはこの「ボブ・ディラン自伝」である。
そんで第二部「ライク・ア・ローリング・ストーン」が出ていたことを知りそれも買ってきた。大出費である。本当はギターを一本買おうかなと考えていたのだが、やめた。僕がギターを弾いても、他人の迷惑だが、本を読む限りそういうことにはならないからである。
シングル、音楽配信がCDシングル上回る
ちょっと前に商業音楽の終焉の話を書いたが、とうとう来るべきときがきた。売り上げで音楽配信がCDシングルを上回ってしまったらしい。
IZA参照のこと
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/40515/
しかし音楽配信の90%は着歌、着歌フルで、さらに着歌が50%弱を占める計算になっている。
これはいびつで4分の1が部分だけの着歌で売り上げが成り立っているということである。
アルバムの数字は出てないが要するに評価に値しないということだろう。
CDシングル、CD、DVD合わせた売り上げが前年度比−3%(8年連続ダウン)、音楽配信を加えると+1.2%ということで、音楽配信へのシフトは決定的なものとなったらしい。

さて売り上げはそういうことなのだがそれが文化的にどういう意味を持つかというと、半数はイヤホン、ないしはヘッドフォンで聞いておしまいということである。コピーガードがかかっているので他のメディアに移されることなく大容量のメモリーの中に埋没していくのである。

こうして商業音楽を聴く人間は耳をふさぎ、商業音楽を聴かない人間は静寂の中を歩くのである。

モナドに窓はない
古寺巡礼
僕は小学生のころから仏像が好きで、お絵かきのテーマはたいてい仏像だった。そのようにわりと自然な信仰心が厚いほうらしい。
旅行も、がやがやした観光地にいくことはなくて、古寺巡礼だった。
京都は親戚がいたため子供のころからしばしば行ったものだ。その親戚はタクシードライバーで、およそほとんどの京都の古寺の知識を持っていて全部教えてくれた。わすれてしまったけど。
母方の親戚は福井で、当然永平寺にしばしば行った。
ここら辺までは自分で行ったというより連れてかれたというほうがいい。
しかし、幼いころからそういう風だったので古寺というのは原風景のひとつである。
社会人になって行ったのが、高野山である。空海弘法大師の高野山である。とまったのは旅館でなく宿坊と呼ばれる簡素な宿であった。
しかし熊野から行ったのでなく、南海鉄道から行ったので、道中ありがたいものは何もなかった。高野山の上は、それ自体が普通の町であり、これも何もありがたくない。一番ありがたいのが奥の院と呼ばれる弘法大師の墓で、その参道は、それは歴史に登場する大名の墓が大小無数にあるのである。それをありがたいと思うか、生臭いと思うか微妙である。
そういうわけで書物で想像するような空海弘法大師の面影をそこに認めることは不可能である。ぜひ熊野古道からアプローチしたいものだ。

僕は奥の細道シリーズというのも実行したことがある。そのゆかりの地を行くわけだが、最上川の水以外、やはり面影をとどめるものはなく、一部は相当観光地化していた。これは薦めない。

修験道のひとつの聖地、小説の名前にもなっている月山へも行った。
これがさすが修験道の山ということで厳しかった。ある程度上ると岩ばかりである。歩きにくい。そして頂上に小さな祠があるだけである。そのとき、本物の修験道の人も行き来していた。さすが速くてさっさと追い抜いていく。帰りやっと山を降りると、さっき追い抜いていった修験道の人が休憩していて、まもなく集団でバンにのって去っていった。アプローチまでは現代なのだ。何か霊的なものに触れたかというとそういうことはなかった。歩きにくいことが100%だった。

これまでの旅行でもっとも霊的だったのは白馬岳を登っていって、雲海をつきぬけ、頂上に立ったときだった。足元にさっきの雲海があり、太陽はまぶしく、雲海のかなたに南アルプスや富士山が見えたときだった。人はわずかでどんな音も空中にすぐに吸収されてしまうかのようだった。そのときは古代の人がどのように自然に敬意を抱いたか少し理解できたような気がした。単独行だったから味わえた経験だった。

もうひとつ霊的なものを感じたのは、カリフォルニアの砂漠の道をフルスピードで突進したときだった。はるか向こうに山は見えるのだがぜんぜん近づかない。道の脇には、ヨシュア・トリーと呼ばれるサボテンが立ち並ぶ。ここで車が故障したら高い確率でひどい目にあう。ようやく山が近づいてきたかと思うと、今度は広大な塩水湖である。これ以上荒涼とした景色はないというくらい不毛の土地である。しかしそこに人間を寄せ付けない自然があることに不思議な感情を持ったものだ。
もっとも砂漠を突き抜けて到着したのはラスヴェガスだったのだが。

それはさておき古寺巡礼を含め霊的なものを感じるのは結構難しい。ほとんどが世俗化、観光地化しているからである。

高い山や砂漠のような自然のほうが霊的だと思う。
まあそこには中世の貴族の霊などは出てこないだろうし。
Samba da Minha Terra - Joao Gilberto

短くって途中で切れるけれど超激レア映像。
たぶん60年代初期のジョアン・ジルベルト。
禿げてない!
「サンバ・ダ・ミーニャ・テーハ」
Sabia - Tom Jobim with Quarte em Cy & A Banda - Chico Buarque and Nara Leao in III Festival Internacional da Canção

悲しき映像ドキュメント。
1965年に軍政下に入ったブラジルは猛烈なサンバ・ナショナリズムに包まれ、ボサノバ一派は売国奴のリベラル扱いされた。一方1964年にアメリカのカーネギーホールへ行ったトム・ジョビンは、「イパネマの娘」の成功以降アメリカで高い名声を得るようになっていた。
実際ブラジルに帰る必要のないミュージシャンはどんどん海外へ脱出して行ったのである。
1967年テレビ番組主催の歌謡コンクールに、トム・ジョビンはブラジルを象徴する鳥サビアをテーマとした精妙な歌を作りカルテト・エン・シーの歌でエントリーした。しかしすでにサンバ・ナショナリズムに染まった聴衆はブーイングの嵐をあびせかける。それが映像の前半部分である。左が若いジョビン、中央がカルテト・エン・シー(本当は4人のうちの2人)、右がシコ・ブアルキーである。
シコ・ブアルキはこの時代は復古的なサンバを作る傾向があったため、サンバナショナリストから見ればいわば味方であった。そのため仲裁役として舞台に立ったといわれている。
結果的に「サビア」が受賞したのだと思う。
そしてシコ・ブアルキが、猛烈に田舎っぽいサンバ「ア・バンダ」を歌って、観衆は熱狂する。ついでナラ・レオンまで「ア・バンダ」を歌う。もうこうなるとサンバは踏み絵状態である。
こうして、ジョアン・ジルベルトに端を発したブラジル音楽の革新運動は停止するのである。
60年代末強権の独裁大統領が不慮の死を遂げると政権は迷走し、スパイ・拉致・監禁・拷問・虐殺が日常化するようになる。
その時代に「パンとサーカス」のサーカスのほうとして国策で大規模に行われるようになったのが、現在浅草でも行われるスタイルのサンバカーニバルである。数日のカーニバルのため1年を無駄にするという独裁政権にあまりにも都合のいいライフスタイルはそうしてでき、勘違いの末日本に輸入された。ばかばかしい。
ジョアン・ジルベルトはメキシコ、トム・ジョビンはアメリカ、ナラ・レオンはフランス、シコ・ブアルキはイタリア、カエタノ・ベローゾとジルベルト・ジルはイギリスに(アイアート・モレイラはアメリカに行って、なんとリターン・トゥ・フォーエバーのオリジナルメンバーになったりというおまけもあるが)など、ブラジルからくそのようなサンバ以外の音楽は一掃されたのである。
そして軍政もだんだんしまりがわるくなり、いかにサンバと酒で酔っ払っていればいいというブラジル人も何とかしなくてはとやっと1985年民政移管がなされたのである。
このころジョアン・ジルベルトとトム・ジョビンが帰還する。
そしてブラジルは立ち直るかと思われたが、すでに国民は腐敗しており、麻薬犯罪組織が蔓延する事態になっていた。
そして、実はサンバナショナリズムの資源も枯渇し、もはやそれは伝統芸能の一種でしかない。
ブラジル人が何を聞くかというとロックや、ヒップホップや、カントリーやブルースまで、要するにブラジル臭くない音楽を主に聴くのである。
なるほどジョアン・ジルベルトも、トム・ジョビンもよい音楽だが、古きよき時代の音楽でしかなくなったのはさびしい。
ちなみに1967年頃トロピカリズモなる音楽革新運動に着手していたカエタノ・ベローゾは、シコ・ブアルキのことを体制の犬のように思っていたらしいのだがほどなく和解する。そのシコ・ブアルキでさえ歌詞は常に当局の検閲を受け、難解極まるメタファーの塊みたいになった。

ちなみに、ブラジル軍事クーデターは、キューバ危機から親米政権を作るため行われたものであることは疑いない。軍事ークーデターの際、沿岸でアメリカ軍艦隊が演習を行っていた。反米サンバ・ナショナリズムはこのようにとんだ茶番だったのである。それがいよいよ明らかになってぼくはブラジル音楽を聴く気が失せたわけである。茶番でないのは1960年前後の数年とあとは単発的なものだけである。
じゃんじゃん。
Chega de saudade - João Gilberto & Tom Jobim

「シェガ・ジ・サウダージ」ジョビン、ヴィニシウス、ジョアンの最初の曲。
 会場には、カエターノ・ベローゾ、シコ・ブアルキの姿が見える。
Garota de Ipanema - João Gilberto & Tom Jobim

ジョアン・ジルベルトとトム・ジョビンがたぶん1985年ころおよそ20年ぶりくらいに競演した有名な映像。曲は「イパネマの娘」。
軍事政権から逃れて二人とも半亡命生活を送っていたためそうなったことを、ブラジル音楽関係者は絶対に書かないので書いておく。
ヒットしたアストラッド・ジルベルトのバージョンは、単に白人の姉ちゃんが歌ったほうがヒットするだろうという予想から歌わせてみたら案外いけたので、ジョアン・ジルベルトの歌を切ってまでシングルにしたのである。後に世界中がボサノバと誤解するステレオタイプはこのようにして偶然生まれたファンタジーである。ちなみに現在のイパネマ海岸はゲイと置き引きのたまり場と化していてやばい場所のひとつである。
曲はすばらしい。歌詞は実話に基づくようにいわれてきたが、創作である。
We Just Disagree - Dave Mason PV

デラニー&ボニーで紹介したデイブ・メイソンの激レア映像。1977年かもしれない。このLPレコードは持っている。なぜかタイトルに日本語が入っている。ははは。オープンチューニングで妙なコードを弾いているがわかる。
これ以外同時代のものはないようだ。
最近の再デビューものの映像もYouTubeに載っている。この「ウィー・ジャスト・ディサグリー」もある。やはり太っているのが情けないし、どうも髪も心配である。演奏もひとつ出来がよくない。まあ探してみて欲しい。
もっともクラプトンもだいぶ太ってきたが、髪に心配はないようだ。演奏はますますよくなったし。
Little Wing - Eric Clapton with Sheryl Crow

クラプトンとシェリル・クロウによる「リトル・ウィング」(ジミ・ヘンドリックス作、「レイラ」収録)。演奏もグッドだね。サックスはデビット・サンボーンらしい。
スライドギターの改善
デレク・トラックスとデュアン・オールマンの映像を見て、右手のピッキングの仕方がだいたいわかったので、今までピックで弾いていたのを、指弾きに変えるべく練習中です。
指弾きのメリットが大きいとも思えないし、ピッキングの音量も落ちるのであれだ。もともとドブロ(レゾネイター・ギター)から誕生した演奏法だと思えば、まず指弾きありきなのであろう。
親指と人差し指で弾くのはさして問題はない。親指の音量が落ちるのが問題ではあるのでそれは練習する必要がある。
よく見ても、果たして中指を使うのかどうかは定かでない。デレク・トラックスは、中指でも弾くことが可能位置に、人差し指と中指をそろえている。なんとこれはマーク・ノップラーの場合もスライドじゃないけれど、同じで、ある種の早いコード弾きのようなリックがあるんじゃなかろうかと、それも研究中だ。
右手のバーの使い方は、ちょっとデレク・トラックスの、早いパッセージをパクってみたりしている。あのようにピッキングしているようでいてしてないで、音階の上でバーを止めるのは難しい。
僕は通常デュアン・オールマン式に太い方から
E・B・E・Ab・B・E
で弾いている。オープンEです。クラプトンはオープンGだね。
G・B・D・G・B・D
わからない人にはわからないのだが、オープンEの音程の関係を、一弦高い方に平行に移動するとオープンGの音程の関係と同じになるので、一弦をのぞくフレーズは基本的に変わりがなく、全然別のチューニングと思う必要はない。まあオープンチューニングしなくてもスタンダードでもいいんだけれどね。
スタンダードでスライド弾くためにはバーの移動がかなり速くないといけない。バーの移動が速くなると和音は出しにくいけれど、フレーズは指で押さえるのと同じなので作りやすかったりする。
デレクもデュアンも薬指で安心した。デッキー・ベッツが中指だったのだ。なぜそれを悩むかというと、たまにスライドバーをはめたまま指で押さえるというケースがあるから。中指の方が、その場合は押さえやすい場合が多い。
しかし中指にバーをはめると、弾かない側の(左側の)ミュートが人差し指だけになって、中指より人差し指が短いし1本指なので、うまくミュートができないことが多いので、自然と薬指に落ち着いたのだった。薬指なら2本指でミュートするので変な音が鳴りにくくなる。
速くバーを移動できるようになると、一瞬だけ弦にふれてちょっとスライドして離れるという他の演奏法ではできない音が出せるようになる。このようなときミュートがうまくいっていないと雑音の固まりになるというわけである。
Poor Elijah - Delaney and Bonnie with E.Clapton, D.Mason

デラニー&ボニーのテレビ・ショーにエリック・クラプトンとデイブ・メイソンが参加した珍しい映像。曲は「プアー・イライジャ」でデラニー&ボニー&フレンズの「オン・ツアー」(あまりよくないしクラプトンはほとんど何もしてないんじゃないかと思うほどだ)にも収録されている。画面左端がクラプトン、右端がデイブ・メイソン、マイクを挟んで歌っているのがデラニーとボニーで、もう一人はボビー・ホイットロックじゃないかと思う。
デラニー&ボニーのバックバンドはフレンズと呼ばれたが、クラプトンやデイブ・メイソンのほか、ストーンズのサックスで有名なボビー・キーズ、レオン・ラッセルやその恋人だったらしいリタ・クーリッジ(レオンの「ソング・フォー・ユー」はリタを歌ったものだという話)、のちのデレク&ドミノスのメンバーのほか、ジョージ・ハリソン、デュアン・オールマンなんとジミヘンまで参加したらしい。
クリームを逃げ出して、ザ・バンドに入れてくれと言って断られて、クラプトンが入り込んだのがデラニー&ボニーだった。この映像は1969年という古いものだ。クラプトンはソロアルバムを、フレンズの助けで出すが、「ブルース・パワー」と「レッド・ワイン」くらいしか聞けるものがない悲惨な状態だった。この二つもそれほどよくないけれど。
デイブ・メイソンの方が作曲は達者でソロアルバムは高い評価を受けた。その後はソフト路線がたたってか人気なくなっちゃうけれど。
フレンズのメンバーだったボビー・ホイットロック、カール・レイドル、ジム・ゴードン(レイラのコーダはこの人が作曲)とアルバム「レイラ」とライブアルバムを出す。「レイラ」の録音中にオールマン・ブラザーズ・バンドとセッションをして、確か2曲目からずっとデュアン・オールマンが全面的に参加した。
クラプトンのボーカルは、デラニーに教わったと公言している。
Russians - Sting in TheDream of Blue Turtle

1984年ポリス解散から2007年ポリス再結成までの間何もなかったということはない。スティングの初ソロアルバム「ブルータートルの夢」に収録された曲。

In europe and america, theres a growing feeling of hysteria
Conditioned to respond to all the threats
In the rhetorical speeches of the soviets
Mr. krushchev said we will bury you
I dont subscribe to this point of view
It would be such an ignorant thing to do
If the russians love their children too

How can I save my little boy from oppenheimers deadly toy
There is no monopoly in common sense
On either side of the political fence
We share the same biology
Regardless of ideology
Believe me when I say to you
I hope the russians love their children too

There is no historical precedent
To put the words in the mouth of the president
Theres no such thing as a winnable war
Its a lie that we dont believe anymore
Mr. reagan says we will protect you
I dont subscribe to this point of view
Believe me when I say to you
I hope the russians love their children too

We share the same biology
Regardless of ideology
What might save us, me, and you
Is that the russians love their children too

The Police at The Grammys 2007

先日のグラミー賞での再結成ポリスのパフォーマンス。
曲は「ロクサーヌ」
B.Vo.スティング
Gui.アンディ・サマーズ
Dr.スチュワート・コープランド
XP−PC崩壊、陰謀か
WindowsXPのPCの回復の見込みはほぼゼロになった。ものすごく冷えていると若干作動するのだが、最終的に立ち上がると温度が上がって死ぬ。
いろんなIDとかPWも失われたわけだが、たいていは別に控えてある。脳の中だけど。規則性があるのだ。
しかしランダムなPWを送りつけられたやつはアウトである。PW再発行などでリカバー中だが、古いメアドで登録したやつはこれもアウトである。
まあ別に重要なものにはいっさい登録してないので問題はない。YAHOOの銀行も預金がゼロであるし。ははは。

古いPCでアクセスしているわけだが、これだとYouTubeがとぎれとぎれにしか再生されない。解像度とか、キャッシュの容量とか、ネットワークのパケットなどいじってわずかに改善された。まったくみることができないということはなくなった。

それとこの古いPCフォントが一部壊れていておそらく何かの強調文字が文字化けしてしまう。ひどい場合には、英語ページ全滅だったりする。一般にはフォント・キャッシュを削除して再起動すれば直るという説がちまたでは書かれているけれど、それでは直らない。どっかから、MSのフォントを持ってきて全部上書きした上で、キャッシュを削除する位しないとだめだろうなあ。

まあ、しかしそういうものだと思えばそのうちなれるだろう。パソコンを買い換えるには不自由である。第一ブログとメールやるのに大金をはたくのはばかげている。

このPCにはMIDI音源とオーディオデジタルI/OがついておりI/Oには8chのデジタルMTRと2.1chのオーディオ・アンプ・スピーカーがつながっていて、おそらく外につながっている方がPC本体より高いと思う。オーディオ処理関係のソフトがいっぱい入っている。

壊れたのはもう放り投げているホームページ制作関係のソフトとオフィスくらいである。まあそのソフトも高価だったが。

そういうわけで、キーボードのタッチになれるまでめんどい気がするが、今後も何も変わらないと思う。
商業音楽の滅亡?
この前の連休中に同居人が一生懸命ケーブルテレビの洋楽のTOP10番組を見ていた。
これがひどい。すごい盛下がり方。
どう表現していいのかとまどうが、TOP3以外は本当にティーンネイジャーのガレージバンドみたいなのばかりである。TOP3のうち一人はビヨンセでこれもものすごいオーソドックスなバラード、もうひとりがTOP1でノラ・ジョーンズだったけど、ものすごくアンビエントな曲。なんのヒットチャートかわからなかったのであれだが、それにしてももはや洋楽の新曲に学ぶべきものは何もないことは確かだ。
知り合い曰く、ヒップホップも完全に衰退して2006年中で500台のDJ用ターンテーブルが売れ残ってしまったそうだ。たぶん多くのDJもタンスの奥にターンテーブルをしまっている頃だろう。
やっぱりデジタル化の結論は商業音楽の終焉だ。あるスタイルがはやって、またそれをしのぐスタイルが現れる等激しい現象は、商業音楽の猛烈な競争に負うところが少なくない。もちろん内発的な現象もあっただろうけれど。
じつのところヒットチャートの音楽なんかこうして振り返ってみると聞くべき曲なんかひどくすくないことがわかる。全くヒットを出してなくても知っている人は知っており残る人は残るのである。
商業音楽が始まったのは1920年代である。もちろんそれ以前もあっただろうけれど、レコードとかラジオがなかったのだ。
世界中を知っている訳じゃないから何だけれどカントリーブルースのロバート・ジョンスンがレコーディングしたのが1929年に死ぬ前である。ブラジルのサンバのノエル・ホーザが録音したのも同時期である。ラジオの放送が広まるのも同時期であったらしい。EP・LPの誕生は1940年代末で本格的なポピュラー音楽はこの時代から始まることになる。LPがクラシックをのぞけば、単に曲の寄せ集めだったのを一名の作品に変えたのがビートルズの「SGT・ペパーズ・ロンリー・クラブ・ハーツ・クラブ・バンド」でこのころからポピュラー音楽家は自らをアーチストと名乗るようになる(どこが?)。しかしこのようなアルバムの作品化はビーチ・ボーイズのペットサウンドの方が先行していたことはよく知られていることだし、ジャズのマイルス・デイビスは自分のスタイルの発展をアルバム単位で凝集させていたのでマイルスが帝王と僕は思う。しかしロックが幅広い表現の場を見つけることができたのはLPというヒット曲の制約のない遊び場を見つけたからだろう。CDは1982年商業化されるが、1986年LPの売り上げを追い抜く。
当面音楽に何も影響がないように見えたが、まず収録曲数の増大で曲の完成度が低くなりアルバム作品としての価値がほとんどなくなる。現在のアルバムはビートルズ以前のオムニバス以上のもではない。また日本の場合輸入CDの低価格化で、大手レコード会社が洋楽のプロモーションを放棄する事態に至る。そのころ別にCDの所為でもないが、テレビのタイアップとカラオケとCDの三位一体で爆発的にCDが売れてしまうが、その層が携帯電話に嗜好をうつして、現在に至る邦楽の右肩下がり現象が起こる。音の劣化のないCDは、LP世代の需要を掘り起こすが、それも限られたものだった。
そしてネット配信の時代に突入する。レコード会社から敵視されていたネット配信だったが、アップルのiTuneの成功で転身を様られるが現状では対応がばらばらである。
著作権使用料収入に固執するレコード界は世界のあらゆる「音」に規制をかけようとして、逆にプロモーションの道を閉ざし、ますますCDの売れ行きは落ち込むばかりである。
かくして2000年代末商業音楽はついに世界から消えてしまうのである。もし聞きたいなら図書館か博物館でも行ってほしい。
パソコンが壊れる
XPのパソコンが壊れた。今原因究明中。
この文章は音作成楽専用に残したWindowsMEで書いてまんがな。
Me時代のPCだとCPUが遅くてYouTubeの再生が難しい。そういうわけでしばらくYouTubeは掲載はなくなる予定です。
きわめて限られた方にしか関係ないけれどメアドもMeに移したので問題ありません。
秋葉の中古屋に行ってやっすいの買ってくるかなあ?
けれど秋葉にいくのが怖いよね。
「おかえりなさいませ」
とかいわれたら小便ちびっちゃうよ。

おもえばまだ真空管ラジオの頃に最初に秋葉原に行ったものである。抵抗とかコンデンサーとかコイルとか買いに行ったもんだった。
トランジスタまではわかったが、ICになるともう足が遠のいてしまった。
中学の時は、だいたい板橋から本郷を通って自転車でよく行ったものだった。もっともそのころはどこへでも自転車で出かけたものだったが。
またパソコンが手にはいるようになっていくようになった。そのころ確かにおでん缶もあったし、ビルの2階とかにアニメ系の店があることは知っていた。それが...
交通博物館は子供の頃よく行ったもんだったが、万世の肉を食ったのは働くようになってからである。

Gergia On My Mind - Ray Charles

おっといろいろ探していたらレイ・チャールズの「ジョージア・オン・マイ・マインド」の良質のライブ映像が見つかった。レイ・チャールズは反対に黒人なのにカントリーをやったという非難を受けたらしい。
Not Ready to Make Nice - Dixie Chicks

先日グラミー賞3部門を獲得したデキシー・チックス(「南部のひよこ」の意味)の「ノット・レディ・トゥ・メイク・ナイス」(まだよい子にはなる気はないんだよ)です(この曲で受賞しているはず)。

「ブッシュを恥だと思うわ」発言で非国民呼ばわりされて、その後も反戦ツアーに参加してタフになったらしい。
ちなみにカントリー・ロックというけれども、日本人のカントリリー音楽観というのは1940〜50年代で止まっている。1980年代くらいからカントリーは、アレンジ上はロックとかその他のジャンルとほとんど変わりがなくなって、せいぜいテンガロンハットかぶっていることと、ペダル・スチールが多用されるくらいしか違いはない。男は低音のボーカルという伝統のスタイルがまだあるが女性はそれもない。単に田舎の白人が好んで聴きそうな音楽程度の意味である。
そういうことでテンガロンハットとペダルスチールのないデキシー・チックスはどう聴いてもロックかポップスであることを不思議に思ってはいけない。

晩年の父親
およそ死ぬまで病気をしていた父親であるが、調子がよいときも少なからずあった。海外旅行まで行った位である。それからは日本はえらいとのたまったものである。その後何を思ったかほとんど勉強したことない英語の勉強を始めた。膨大なノートを作った。翻訳しようとか英会話しようとかいうのではなく、ただ英語を勉強したのである。正しくは英語と日本語の文法の比較をやっていたのである。なるほど理屈っぽい奴だなってことがわかるエピソードである。読ませられたが、学校で英語を教えられた身にとっては特に珍しいものではなかった。少なくとも75歳くらいまではやっていた。そこから英語と日本語の中間文法を発見していたらノーム・チョムスキー並だったのだが。

そういえば思い出した。父親がパソコンがようやく入手可能になったときにBASICで会計ソフトを作って売り出そうとしていた。その頃ぼくは忙しくてどうなったのかよく知らない。もうちょっと若くて健康だったらよかったのにね。

そういうわけであと10年前にブログがあったなら父親は、本気で彼の考えを書いていたと思う。英語と日本語の文法の比較に関するブログを。残念ながらブログができたころ2〜3年前?では父親はまったく起きて生活することができず、食以外の関心が失せてしまっていたのだ。

この1年そういうわけで父親とコミュニケーションらしきものはほとんどなかったのだが(用事は言いつけられた)、ある日一日だけなんか父親の意識がずいぶんはっきりして、しかも僕と父親だけとなって、別に何も話さなかったけれど、父親が笑顔を見せてくれた。その時の事は鮮明に覚えている。デジカメに写せるものではなく、脳裏に焼きついているのだ。

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

だと今思った。
白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
父親がしょっちゅう言っていた短歌はつぎのもので、若山牧水作だそうです

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

解説は次のページで。近代短歌の金字塔だそうです。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/bungsono/shisoro/100nin084.htm
http://question.excite.co.jp/kotaeru.php3?q=1592138
*哀しからずや=尊いな

普通の解釈では青を背景とした白の存在感の印象主義的な描写ととるべきでしょう。父親が何を考えていたかは僕もわからないので、まあ真相はご想像にお任せします。
父親で思い出すこと
こういうところで書いておけばどうせ薄れ行く記憶だが多少は残るだろう。
ぼくはかなり年齢の離れた3人兄弟末っ子であった。父親がすぐ会社を変えてしまうので家は貧しかった。でもぼくはまだそのころ幼稚園・小学生で事態がよく飲み込めていなかった。
しかしそういう父親だが、彼は僕を外出のお供にしてちょっと息のつまりそうな家から逃亡した。
行き着けのコーヒー屋があって、そこは今でもある。毎日曜ごとぼくは、まだちびなのにそこへ連れてかれた。コーヒーは飲めないので、たぶんミルクとかソーダ水とか飲んでいたのだろう。なんとなくカウンターが高かったことをうっすら覚えている。父親が死んだ日ウン十年ぶりにそこへ行った。店は狭くカウンターはちぽけだった。
また王子の飛鳥山に植木を買いに行くという趣味が父親にはあった。それにも連れていたかれた。僕が行きたいという事はなく、たぶん母親に対する口実で僕を連れて行ったのだと思う。とはいえ父親が病気になるまで、小さな庭は小さな花をつけた植木鉢で一杯だった。
家の前はちょっとした公園で、僕のキャッチボールにも付き合ってくれた。ぼくは野球のユニフォームも買ってもらえないことにおかしいとは全く思わなかった。なぜかというと小学校ではサッカーをやりサッカーのスパイクは買ってもらえたからである。
ある日多分中学生の時だと思うが、なぜか秩父の小さな山に登山に一緒に行った。どっちが言い出したかはわからない。そこで父親は途中でへばってしまい苦しそうな顔を見せた。たしか登山は止めて帰宅したと思う。
けれどその頃は父親の勤務先も安定し、生活も少し豊かになった。ぼくは自分の友達と遊ぶようになり、父親のお供をする事はなくなった。
父親は、電気関係に強かったのでステレオがあって、小学生の頃から父親がかけるレコードを聴いて育った。「ペーターと狼」をやたら聴いたのを覚えている。あれはどこへ行ったのだろう。音楽好きになったのは年の離れた兄の影響が直接的には強いだろうけれど、「ピーターと狼」の方が記憶では圧倒的に大きい。
父親は、萩原朔太郎が好きで、そういう同人に入っていたらしい。戦前の話だ。前にも書いたが哲学趣味があって、それを僕の前でとうとうとしゃべった。「白鳥が...」と始まる短歌を必ず口にし、それが存在の時間性を歌ったものだというのである。その時もちんぷんかんぷんだったし、今でも父親が何を言わんとしていたのかは不明である。
そういう父親の影響で家族全員がたいへん理屈っぽく、一番年下の僕にも容赦なく理屈の雨を浴びせかけたのである。ぼくもたしかに理屈っぽくなったが、その理屈っぽい論争だけはいやでぼくがあえて論争に挑む事はなかった。論争になるとプチ家出をしたものだった。そのご社会人になって会議という寄り合いで論争を強いられることになるのだが、その時論争に臨んだ僕の論破力は破壊的だった。自分でも驚いた。相手の言っていることが背理であると相手に言わせることができた。のちに命取りの元になるのだが。
高校3年のとき父親は十二指腸潰瘍で病床に就く。収入はなくなる。ぼくは現役で大学行くなんかはまるで考えてなかった。なので働くか、どっか国公立大学に入るかのどっちかだった。運良く新設の学科で日程で低倍率となることがわかった大学があってとりあえずそこに入ることができた。でも遠くてバイトばかりしていて中退してしまった。
このことについて父親が「遊びやがって」という旨のことを言ったため僕と父親はほぼ絶縁状態になった。のちにそうなったのは全然別の事情からだったことがわかるのだが、父親は結局死ぬまでそれを理解する事はなかった。ばいばい。

父親はおそらく新宿生まれで、かなり裕福だったらしい。そのため戦前に大学に行っているくらいである。さっき書いたが文学青年で、つまりその時代の意味で実際にインテリだった。自由主義を標榜していたことも確かで、警察に監視されたり、一回は捕まったことも聞いている。
20歳の時出征して、満州へ行ったそうだ。最初は二等兵でぶん殴られてばかりいたそうだ。満州のだだっ広い草原の塹壕に入り、中国軍と対峙する。とはいえ向こうも塹壕に入っている。両方とも頭を出せば銃弾が来るとわかっているので、両方とも頭を出さない。そうしてただずっとずっと天気のいい草原の中で対峙し続けただけだったそうだ。
二等兵でぶん殴られるのに嫌気がさしていた父親は、ある日通信兵の募集があって、電気関係に強かった父親はそうして、ぶん殴られることのない小隊に配属され、しばらくのんきに暮らしたらしい。
しかし、戦争末期に千島列島に送られた。何も後方支援がなかった。食い物は昆布しかなかった。それでもみんな栄養失調になって行った。結局父親は栄養失調で帰還させられその時終戦を迎える。つまり抑留を免れたのだった。
もし抑留されていたら以下の事態は起こらなかったと確信できる。
父親は疎開していた祖母の実家にもどったが財産と呼べるものは何もなかった。そして近所の下駄屋の娘と結婚し、上京する。千駄木や小石川や川崎と転々としながら2人の息子をつくり、板橋に家を手に入れ引っ越したすぐ後3人目の息子をつくる。つまり僕である。

そういうわけで、父親がかなり偏屈な人間であったとしても驚くには当らないような気がする。そしてそれは僕にも言えるだろう。しかしものの考え方でぼくが父親を超克しようとした努力は途方もなく、そしてそれは何も産まなかったのである。

僕が深刻な病気になったときもはや「自由」というのは、のたれ死ぬ自由しかなかった。それは父親も同じで、最初に病床に付してから約30年間次第に身体と意思の自由を失っていく辛い思いをしたのである。
シンディ・ローパ「ザ・ボディ・アコースティク」を購入
The Body Acoustic

前にPV(というかおそらくDVD)で「マネー・チェンジ・エブリシング」を紹介したシンディ・ローパ「ザ・ボディ・アコースティック」購入して聞いてしまいました。
驚くのは、アレンジ変えているんだけどボーカルはカンペキに若いときと同じなこと。衰えを知らないというより、デビューの時にどれだけ完成度が高かったか、ということです。このアルバムでは完全にカントリー・ブルース・スタイルの「シー・バップ」をやったり、もっとクラシカルなボーカルにアプローチしたりして、昔の焼き直しではないことを証明してます。
お茶目なシンディは、パフィが参加している「ガールズ・ジャスト・ウォナ・ハブ・ファン」で健在。パフィ下手だよ。アクセントのないボーカルが笑える。無意味に日本語入れるというのは一時はやったけど、パフィの上手な日本語が聞けますが、まあボーナストラックということで。
全体としてはずっしり重みのあるボーカルの印象が強いです。

そうだ、こないだ人にもらったボブ・ディランの「モダン・タイムス」も紹介しちゃおう。おそらく全部カバーで、アコースティックなバンドスタイルの演奏です。CDになんのクレジットもないので。やれやれ。おそらくカバー・アルバムというのはボブ・ディラン初めてなんじゃないでしょうか。
有名どころでは「ローリン・アンド・タンブリン」(クラプトンが「アンプラグド」でカバーしたブルース)「サムデイ・ベイビー」(これはオールマン・ブラザーズ・バンドがカバーしたブルース)。というわけでブルースだけというわけじゃないですが、そっち系が多いです。ディランのだみ声が本当にしわがれ声で、若い頃ボーカルをわざと崩していたスタイルが、今ではそのまんまになったという感じです。
ぼくは変態だからかなり気に入りましたが、普通の人はダメでしょう。
Modern Times


Vertigo - U2 in Live8

一昨年のチャリティコンサート「ライブ8」のU2「ヴァーティゴ」。ボノはコンサート開催の重要なメンバーだった。
昨年末来日を果たした。
Where the streets have no name - U2 live


たぶんヨシュア・トリーの時のライブのようだ。日本語字幕いり(笑)
この「ヨシュア・トリー」のアルバムでグラミー賞を総なめにして、トップクラスのバンドになる。プロデュースが何の関係もないように思えるブライアン・イーノ。

その後基本的にかなり純真な彼ら(ボノは聴衆と距離ができるのがいやで舞台からダイブして骨折したくらい)は商業的成功にフラストレーションを抱えることになり、金とデジタルとユーロビートに対するサタイアをテーマにする作品を続けて、ファンを追っ払う作戦に出た(とぼくは思う)。ビートルズみたいにライブを止めてしまったり解散するのを避けた。最近の2作は基本的に「ヨシュア・トリー」以前のスタイルに戻った。何でだか理由は知らない。

「ホウェア・ザ・ストリーツ・ハブ・ノー・ネイム」のアレンジはかなりのバンドがパクったと思う。この曲はクリスチャンの精神的なテーマを扱ったものだろうと当時は思った。
Let's Impeach The President - Neil Young


原文から
ニール・ヤングの「レッツ・インピーチ・ザ・プレジデント」(大統領を弾劾しよう)の公式ビデオ (http://www.neilyoung.comでダウンロード可能)

このビデオは YouTube Let's Imprech The President キャンペーンへのレスポンスです
Blowin' in the Wind - Neil Young and Crazy Horse 1991 live


ニール・ヤングによる「風に吹かれて」。1960年代ではなくて1991年のライブ。つまり湾岸戦争の頃だと思う。
Ohio - CSN&Y 2006 live


2006年の Freedom of Speech tour というツアーのライブ。この歌は反戦歌で昨年そういうツアーをCSN&Yがやっていたという事は始めて知った。なにしろ「愛国者法」などというアメリカ人もびっくりな法律を作ってしまったブッシュ政権である。初期にイラク戦争批判をしたカントリーバンドのディキシー・チックスは猛烈な非国民扱いをされたもんだった。ジョン・フォガティーのクリップは前に流したけれど、意外なことに「フール・ストップ・ザ・レイン」は反戦歌である。もちろんディランの「風に吹かれて」、マーヴィン・ゲイの「ワッツ・ゴーイン・オン」もそうである。
日記
昨年末父親が死去して明日が四十九日だ。明日墓に納骨に行く。
非常に長いこと病気で苦しんでいたので、楽になれてよかったねというのが正直な気持ちだった。

今は家に骨があるし、ぼくはその隣で寝ているので、化けて出るかなと思ったけれど、そういうこともなく、夢にも出てこず、ちゃんと往生してくれたのだなと思ってます。

ただ長年外出できず同じ場所で寝起きしていたため、どうもそこを通るのを避けてしまうという癖がまだ抜けない。

実際なくなる直前までは本当に苦しそうだったし、世話も大変になっていくし、内心に気まずいものがあった事は否めない。たぶん、ぼくがすぐばてるような人間でなければ、もうすこし生きてもらえたかもしれない。つらさはかえることはできないけれど。僕はあと半年くらいでだめになるだろうと思った翌日に死んでしまったのである。

僕が父親にベストを尽くさなかったのは事実で、それを思うといやになるが、死亡後の行事で忙殺される間に、そんなことはどうでもよく感じるようになったのである。

よくテレビなどで亡くなった家族のことをいつまでも思い続けてます、みたいなインタビューがあるがあれはやらせである。

死が来ると、僕らの時間はどんどん勝手に進み、死者の時間は止まってしまうのである。まるで電車に乗り遅れた人みたいに死んだ人は視界から消えてしまう。そして次の電車は来ない。

なので確かに僕と父親に確執があったとしてもそれは魔法のように消えてしまうのである。ただぶつぶつ独り言を言っても聞き手は不在である。

亡くなる直前からしばらく睡眠をはなはだしく邪魔する事態が続いた。睡眠障害を持つ僕には破壊的であった。死にそうであった。しかしこの数日で何とか普通に戻った。

なんで納骨が四十九日なのかというと根拠は、人の噂も七十五日とおなじで明確ではないだろうが、家庭の日常生活が平穏になるには経験的にそれくらいかかるからということじゃないだろうか。

このブログ、実のところ父親がなくなってから始めたものだがなんで始めたのかその時の心持は思い出せない。なんかそれまでと変えたかったのだろう。しかし破壊的状況下で文章を書くのは困難だった。それでいつの間にかYouTubeの洋楽サイトみたいになったのだ。だが怪我の功名。こういう変態ブログもあってよいのではと思った。

哲学というか論理学のことを書いているのは、ちゃんと断っているが、算術中枢と言語中枢が別だというニュースを読んだからだ。言葉と数字がことなる領域のものだというのは今まで管型ことがなかった。「1」は言葉ではないのだ。なんとなく背理のにおいがする。ちょっと調べたら、プール代数というものによって単純な論理は算術に還元できることもわかった。え?え?言葉の値(というものがあるとして)を算術中枢に代入すると結論の値が出てくるの?でその値を言葉に変換するの?そういう話は一切聞いたことがない。とまあその問題の前提となる話をかじっているだけである。気が狂ったわけではない。

こういう哲学趣味は父親が植えつけたものである。子供の頃ぼくに論戦を挑んできたものである。ぼくはわからないから、プチ家出をよくしたものだ。

父親は、存在は時間的なものだということを僕にしょっちゅう言っていた。たぶんハイデガーの影響だと思う。ちびの僕にそれを理解しろというほうが無理である。

むしろ僕は「存在」というものが思考できないので、父親の話はなおさら謎めいている。誰か「存在」を比喩で言ってくれないかと思うくらいである。おそらく父親の無理難題の反作用で、思いっきりニヒリストになったのだと思われる。

なにか在るより何も無いことのほうが思考が簡単である。実際父親は無になったし。
Money - Pink Floyd in Live 8


マネーがタイトルに来る曲が続いたので、それならこのピンク・フロイドの「マネー」は欠かせない。
一昨年のチャリティー・ライブ「ライブ8」のためにわざわざ再結成した時のもの。
Sweet Home Alabama - Lynyrd Skynyrd live


レナード・スキナードのたぶんオリジナルメンバーによる70年代の「スイート・ホーム・アラバマ」。
有名なお話だけれどこのアメリカ南部のロックバンドは、二ール・ヤングの「アラバマ」という曲に対するアンサー・ソングとしてこの曲を書き大ヒットした。ニール・ヤングの曲は忘れられたが、こっちは生き残った。ただしボーカルのオリジナルメンバーのうちロニー・バンザントを含む多数が飛行機事故で死亡してしまった。たしか弟がボーカルをやって再結成して現在新しいメンバーで活動している。
Money For Nothing - Dire Straits PV


ダイアー・ストレイツもパンク時期のデビューだけど、演奏はパンクのかけらもなかった。「悲しきサルタン」がオーストラリアでパワープレイされヒット曲になり、ディランのバックバンドとなり名声を得て(ちょうどディランキリスト教改宗の頃)、ヨーロッパではものすごい人気になった。しかしアメリカではいまいちで、したがって日本でもいまいちであり、全然知らない人がいても不思議である。PVの「マネー・フォー・ナッシング」がちょうどMTV全盛期で、稚拙ながらCGを多用したビデオクリップが評判を呼んだのかしらないが、大ヒットとなり全米でも人気が出たが、日本ではそれでもいまいちである。デビュー時は4人だけだったが、すぐに編成が大規模になってツアーが大変だというので活動を休止してしまって今に至る。
一時は本気でクラプトンがツアーバンドに入っていたこともある。リーダーでライターでシンガーでソロギタリストのマーク・ノップラーの才能はそのように非常に高くされていて、ミュージシャンズ・ミュージシャンみたいな一面がある。
ギターは、ピックを使わない指引きでノップラー独自の奏法である。チェット・アトキンスの影響だという説と不明だという説とがある。
このPVのバックボーカルはCDと違うかもしれない。CDではスティングがバック・ボーカルとして参加している。
この曲は金のために猿みたいに演奏しているハードロックバンドをコケにした曲で、ギターは通常あまりひずませないノップラーである。

Hole In My Heart - Cyndi Lauper PV


「ホール・イン・マイ・ハート」。お茶目な頃のシンディ・ローパー満載。なんで中国なのか謎であるかもしれないがコーラスの歌詞が
This hole in my heart that goes all the way to China
だからである。